読んだ。

http://karigari.hatenablog.com/entry/2013/11/06/000000

全く自分にとって新しいことでなくても、文字に起こされると驚くことがある。概念は知っていても言葉は知らない、そんな感じだ。自分が何か努力したり頑張ったり、そういったことを何のためにしているか。

答えは「自分のため」いつもそう答えていた。その答えは今でも変わらないけれど、その概念のエイリアスがあるとしたら、「やった事実はなくならないから」じゃないだろうか。

僕自身は今まで努力してきたことが報われることもあったし、報われないこともあった。努力でなんでも叶えられるとも思わないけれど、努力してやってやれないこともないんじゃないかと漠然と感じている。 だから僕はやりたいことがあったら努力したらいいんじゃないかと思う派だ(派閥があるとすればだけど)それが叶うとか叶わないとかあんまり関係なく頑張ってみればいいんじゃないかと体が知っているからだ。

でもだからそれを言葉にできない。もちろん言葉にできないから答えを知らないんだけれど、「やった事実はなくならない」という言葉はその答えなんじゃないかと感じた。

やった事実はなくならない

今までも頑張ってきていろんな結果が出てきたけれど、確かにやったことはなくなってないよなーって思う。受験勉強で覚えたこととか大体忘れたし、学生の時水泳もやっていたけれど、もうお腹だけぽっこり出始めてきたし運動してない。 それでもなくなってないよって思う。やっぱり体がそれを知っている。人間の体って1年の間にほぼ入れ替わるらしいからそれを知っていた体もほぼほぼなくなっているんだけど、それでもなくなってないよな。

多分、努力することの大切さを知っている人はこのことが分かっているんだと思う。夢は必ず叶うとか、諦めずにいればなんとかなるとか。本当はそういうことじゃなくてただ、「なくならないよ」って言いたいんだと思う。 結果はどうあれなくならない。それが失敗でも成功でも誰かに横取りされても盗まれても。自分が頑張った事実はなくならない。

そのなくならなかったものが役に立つとか全くわからない。けれどもなくならなかったものが体の中に幾つかあるっていうのはとても気持ちのいいものだ。なんて言うんだろう。体の中に金庫がある感じ。でも鍵は持ってない。 その中にいろいろ大事なものが入っているんだけれど自分にも開け方がわからなくてそれが使うこともできない。でも中に大事な何かが入っていることはわかって、頑張ったり努力したりするといつの間にかそこにものが入っていくことも 知っている。そういう感覚。

努力した結果はどうだか知らないけれど、努力した事実はなくならないことはわかってる。

多分そのことも努力した結果なくならなかった”事実”だと思う。