最近英語を使って仕事をすることが多い。もともとソフトウェアのドキュメントは英語で書かれているから読むことは多かった。 でもここ最近はOSSのコミットも結構まじめにやるようになってきたし、毎日会って仕事を一緒にする人の中に日本語が話せない人がちょくちょく増えてきたからだと思う。(今の仕事はとても刺激的だ)昔から英語それ自体を勉強しようと思ったことはあんまりなくて、 必ず何かに使うからというモチベーションでいつも英語を学んできた。もともと本を読むのが好きだったし、世界にある文章のほとんどは英語で書かれていると知ってからはなおさら英語を読めるようになりたいと思ってきた。

smile

日本の英語教育は基本的に読み書きに主眼をおいているけれど、僕が英語を使ってしたかったことは昔から「読む」ことだったから基本的に学校の英語の授業は好きだった。よく学校の勉強だけじゃ話せるようにならないなんて批判を受けてるけど(確かにそれは事実かもしれないけれど)僕にとっては読めればよかったから英語の勉強は好きだった。 話せることって別にそんなに大事なことだろうか。いやもちろん大事なのだけれどそれは話す必要がある状況があっての話じゃないだろうか。 読めればいいという状況だったらやっぱり読む能力だけでいいはずだし、日本語が話せない人と話さなければならないんだったらそれだけではだめだ。

例えば最近漢字が書けなくなった。でもそれって書く必要がなくなったから書けなくなったんじゃないのかと思う。脳って必要のあることは覚えているし必要なくなったと判断されたら忘れ去るようにできているらしいから、すごく自然なことだと思う。必要性は何か新しいことを学ぶときに起爆剤としてだけではなく走りつづけるための燃料にもなる。脳が「これは必要」だと判断してくれたらあとは任せよう。きっと勝手に学んでくれる。必要なことは吸収してくれる。

多分大きな問題は「結局のところ何が必要なのかがわかってない」ということじゃないだろうか。海外に行く、日本語の話せない人と仕事をしないといけない。 これってすごくわかりやすい「必要性」を自分に与えてくれていると思う。もしそうでなかったら英語は僕に必要だといえるだろうか。

今、何が必要かを判断する。これって難しいことだけれど、学ぶときのエネルギーを大きく節約してくれるとても効果的な方法だと思う。